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私たちは、「ヨーロッパのパステルでは日本の風景が描けない」そんな画家の想いに応えるためにパステル製造をはじめ、100年以上の歴史を持ちます。
色・描き心地の追求はもちろん、安全性を考慮した素材を使うなどの改良も繰り返しており、その品質は国内はもちろん、アジア、ヨーロッパ、アメリカなど海外での販売でも高い評価を受けております。
また、わたしたちの製品は材料に再利用可能なものを選択し、製造での残余物を次回製造で再利用しております。製造過程においての廃棄物をなくす(zero waste)最善の努力をしております。
パステル画は、明治時代に油彩画や水彩画とともに紹介されました。西洋画の材料や技法全般についての解説本が1898(明治31)年に出版されています。『洋画手引草』という本で、森鷗外・久米桂一郎の共著です。パステル画は「彩錠子畫」と訳され、「いろチョオクゑ」とふりがながふられています。
この時代、油彩画を主としながらもパステルを試した画家は少なくありません。彼らの使ったパステルは、海外から持ち帰ったものや、国内で輸入画材を扱う東京や大阪の画材店で入手したものでした。
当時の画材カタログをみると、フランスのルフラン社やブルジョア社のパステルが掲載されています。たとえば「洋画材料品日本画用品明細目録」(大日本絵画講習会、1909年)では、20色から最大156色のセット販売とともに約20色の一本売がされていたことがわかります。しかし、「日本に到着した段階で2割ほどは折れていることを了承してほしい」と書かれており、脆いソフトパステルの輸入販売には苦労があったようです。
輸入に頼っていたパステルですが、ある画家の熱心な要請から国産化が始まります。画家の名は、矢崎千代二(1872〜1947)といい、日本近代洋画のパステル画を牽引した先駆者と呼ばれています。旅をしながら写生した矢崎はパステルの有用性を感じ、日本で広くパステル画を普及させようと考えました。しかし、それには海外のパステル製品だけでは限界がありました。輸入のパステルでは欲しい色の補充がままならず、日本の風景を描くための色味や中間色が少なく、形状が細くて折れやすいなど不便が多かったのです。
そこで、矢崎は国産パステルの製造を呼びかけました。賛同した画家仲間の南素行(1890〜1967)が、固形水彩絵具を製造しながら趣味として絵も描いていた間磯之助(1888〜1965)を紹介します。間は「日本を描くパステルをつくってほしい」という矢崎の依頼を聞き入れ、パステルの製造に着手する決心をしました。
矢崎の依頼を受けた間は、1919年に31歳で京都に王冠化学工業所を創業し、国産パステルの開発に精力を傾けました。創業の地が京都であるのは、日本画作家が多く、また清水焼の産地でもあるため顔料が入手しやすいなど、地の利を考えたからだと伝え聞いています。
試行錯誤を重ね、間は矢崎が望んだとおり、日本の風土を描く色を揃え、紙を巻かず、使いやすい短いサイズにし、タッチを活かせる柔軟性に富んだ品質のパステルを作り上げました。1926年、ヨーロッパから帰国した矢崎は日本でのパステル画普及に向けて、東京や大阪でパステル画講習会を開催しました。その時に使用されたのが、間が作った154色のパステルセットです。
間は矢崎から贈られた《ゴンドラ》を描いたパステル画にちなみ、商標を「ゴンドラパステル」とし、マークもヴェネツィアの「ゴンドラ」をモチーフにしました。
間は154色セットをもとに、初学者向けの126色セットや、長いサイズの156色セットなども製造しました。また、一本売りにも対応したことで、パステルを愛好する人たちから必要なパステルが一本から買えるようになったと歓迎されました。
その後、間は色数を増やして240色のセットを販売しており、さらに500色を超える製造が可能であったことがわかる資料も残っています。
持ち運びしやすく、色を選び取るだけで描けるパステルは、プロ・アマ問わず写生を重視する画家や色彩表現に重きをおく画家たちに支持され、戦前には、レートン社(兵庫)他、いくつかのパステル製造所がありました。しかし、戦災などで廃業し、当社が国内で唯一ソフトパステル製造を専門とするメーカーとなりました。
現在は242色のソフトパステルを製造しています。その色合いは、顔料の使用規制や時代によるニーズに対応して、間が製造した当時のパステルから変化してきましたが、矢崎の理想と間の研究成果が融合したゴンドラパステルの確かな品質と色づくりに懸ける探究心を受け継ぎ、日本のパステルを作り続けています。
矢崎千代二は、明治5年、今の神奈川県横須賀市に生まれる。奉公先で画才を認められ、15歳の時に曾山(大野)幸彦の画塾に入門。その後、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)で黒田清輝に学んだ。白馬会会員となり、文展にも出展。1904年に開催されたセントルイス万国博覧会の事務局員として渡米し、ヨーロッパ諸国を歴游して多くの油彩作品を描いて帰国。その展覧会を東京交詢社で行なった。
1918年に中国へ渡った頃から、矢崎はパステル画に傾倒していく。さらに、インド、ヨーロッパ、東南アジアへと足を延ばし、旅で出会う風景を数多くのパステル画に残した。後年には南米への移民船に同乗し、コーヒー耕地やアマゾン川流域にも向かった。生涯に二十カ国以上を巡り、現地の人々と交流し、世界各地で個展を開催している。
1938年に満洲に渡り、終戦を北京で迎えた。そのまま北京に留まることを希望し、徐悲鴻と親交を深めたが、2年後に75歳で客死。徐悲鴻は追悼の詩を贈った。矢崎が中国教育部に寄贈した1008点のパステル画は、今も中央美術学院美術館に所蔵されている。
矢崎千代二は、パステルによる「色の速写」という独自の手法を唱え、風景の息づかいまで描きとめた。加えて、だれもが絵に親しめる画材として、日本のみならず、滞在した各地域でパステルの普及にも尽力した画家であった。
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